朝3時半に起床し、持参の食料を少し食べてから、装備を持って階下に降りました。出口付近にザックを置いて食堂へ。4時に食堂の明かりが灯り、パンとハムやチーズ、飲み物で簡単な朝食を摂りました。
食事後、Aガイドとロープを結び合いました。氷河歩行の時と同じく、ビレイループに環付カラビナでつなぎました。今回は岩登りの要素が強いので、「大丈夫かな」という思いが一層強くなりました。やはり、私がガイドならお互いのハーネスに、ロープは直結するでしょう。
真っ暗な中、ヘッドランプを点けてヘルンリ小屋を出発。昨日のような風は無く、山は静かです。Aガイドが私の前を歩き、先頭パーティーから10番目くらいでしょうか。ヘッドランプを点けてのルートファインディングは大変です。数パーティーが一緒に登りましたが、ルートを少し間違えた所もありました。ガイド無しで登る場合は、暗い時間で登る箇所は前日に下見をしておくか、明るくなってから登る方が良いかもしれません。下部にある太い固定ロープの部分を過ぎた後は、ひたすら急な登山道や2級程度の岩登りが続きました。
6時頃、遠くの山が明るくなってきました。6時半にソルベイ小屋(4003m)着、陽が登りました。登り始めて、2時間15分です。他パーティの休憩を横目に、我々は休まず登り続けました。ツェルマットのガイドは、岩が急な場所に来ると、豚のしっぽのように丸く曲げられた鉄棒にロープを巻いてお客を確保していました。我がAガイドはそんなことをせず、同時登攀でどんどん登っていきます。たまに、ランニングビレイの代わりに丸い鉄棒にロープを通すくらいです。私の登りを信じているのか、それとも登頂を急いでいるのか??
やや傾斜の緩くなった肩は雪田になっており、ここからアイゼンを装着し、ピッケルを使い始めました。ピッケルを持たないでガイドに連れられている人を何人も見かけました。固定ロープを両手で持つには便利かもしれませんが、急な所では手を雪面につけてバランスをとっていました。後で聞いた話では、ピッケルは持って行かないで、と指示していたガイドがいたようです。少しでも重量軽減という事と、自分がショートロープで安全確保するからOKということでしょうか。
頂上が近くなるにつれ、傾斜が急になって、固定ロープが数ピッチ続きます。アイゼンで岩を登る技術も必要です。
7時半にマッターホルンの頂上(4477m)に到達しました。風は微風程度で、絶好の登頂日和。1865年7月13日午後1時40分、同じような好天気の中で、ウィンパー一行7名がこの山を初登頂しました。そして下山時に4人が墜落死するという事故が起こりました。栄光が一瞬にして悲劇となった事を、今一度思い起こしました。写真を撮り、すぐに下山にかかりました。本当は上の写真に見えるイタリア側の頂上(ウィンパーの仲間であり、ライバルでもあったイタリア人ガイドのカレルが、ウィンパー一行の3日後に南西稜から到達した所)まで行きたかったのですが、そうもいきません。大勢の人達がまだ登って来るのです。Aガイドは下山を急いでいました。
登って来る人達をかいくぐるように下り続け、ヘルンリ小屋近くまで来てようやく休憩しました。見上げると、頂上はいつの間にかはるか遠くです。充実感が少しずつ湧いてきました。
10時半過ぎにヘルンリ小屋に着きました。ビールで乾杯し、ポテト料理で腹ごしらえです。
昨日の午後と同じく、この日もハイカーの人達が山を眺めに上がってきました。そして、登り終えたパーティーが、少しずつ下りてきました。同室のKさんも無事登頂を果たし、お互いの成果を喜び合いました。
通常なら登頂日の午後に下山するのですが、今回は翌日を予備日としてしていたので、ゆっくりと夕食を食べ、夕暮れのマッターホルンを楽しみました。
翌朝のマッターホルンです。朝陽でやや赤みがかっています。拡大写真の右肩に、アイゼンを装着した雪田が見えます。
朝食後、のんびりと下山を始めました。秀麗なマッターホルンを目に焼き付けるように眺めました。ヘルンリ稜の左が東壁(1932年9月19日午前8時半:L・カレルらが初登)、右が北壁(1931年8月2日午後2時:シュミット兄弟が初登)です。
帰りのテレキャビンからは、草を食む羊たちの姿が見えました。乗り継いだロープウェイでは、ヴァイスホルンの周辺でスキーをしていたらしい高校生に会いました。
モンブランとマッターホルンの2山に登ることのできた幸運(特に天気)に感謝しながら、再び列車と車でシャモニへの帰途につきました。帰国までの残り数日間は、シャモニとその周辺を見て回ることにしました。