チベット到着4日目。起きてSPO2を測ったら86。標高は高くなったのに数値が上がったということは順応が進んだらしく気分は良好。この日は偵察にいく山に近いソチンという街まで車で移動する。シガツェからの距離は約600km。何時間かかるか判らないのでタシ君とはまだ暗い6:30出発と約束してあった。ロビーに行くと真っ暗で誰もいない。よく見るとソファーに受付嬢が布団をかぶって寝ている。しかも2人。ここが彼女たちの寝床らしい。起こしてガイドのタシ君に電話を掛けてもらう。10分ほどして出てきた。まだ暗い国道219号線を西に向かって車を走らせる。
中国の地図を持っている方は広げてみてほしい。スマホでグーグルアースを開いた方が判りやすいかもしれない。
チベット自治区は中国の西に位置し面積日本の約3倍、パキスタン・インド・ネパール・ブータンと国境を接している。国境に連なるヒマラヤ山脈は、南に凸の弧を描いて北西から東に長さ2,400km、幅は250km~400kmに及ぶ。このヒマラヤ山脈の北側を西から東に流れているのがヤルツァンポーで、聖山カイラスの近くに源を発し、ヒマラヤ山脈東端のナムチャバルワ峰(7,782m)で大きく南に向きを変えてインドに入る。
インドに入ると名前をブラマプトラ川と変えインダス川と合流してベンガル湾に注ぐ全長3,800kmにも及ぶ大河である。ヤルツァンポーが南に向きを変える辺り(大屈曲点という)を地図でよく見るとヒマラヤ山脈が東西に並んでいたのに対して、山脈がいくつも南北に並んでまるで大地にしわが寄ったようにみえる場所がある。これはインド大陸がユーラシア大陸にぶつかったことを示す痕跡だという。
(褶曲(しゅうきょく)大地)
プレートテクトニクス理論に依ると、7,000万年前、インドとオーストラリアが載ったプレートは北上を始めユーラシアプレートの下に潜り込み始めた。そのスピードは15cm/年だったといわれている。5,000万年前にはユーラシアプレート前縁にあったテチス海の海底堆積物を押しつぶして更に北上、1,000万年前には押しつぶされた堆積物は隆起を始め今のヒマラヤ山脈を形成した。隆起の規模はすさまじくヒマラヤ山脈には最高峰エベレスト(8,848m、チベット名チョモランマ)を含めて14座の8,000m峰があり、世界で7,000mを越えるピークはこの山域以外にない。押しつぶした距離は約2,000km、押し上げた高さは10,000mにもなると言われている。インドとオーストラリアが載ったプレートは、ユーラシアプレートそのものも押し上げたので、ヒマラヤ山脈の北に標高3,500m~5,500m、世界の屋根といわれるチベット高原ができあがった。
今もインドとオーストラリアの載ったプレートは北上を続けていてヒマラヤ山脈の隆起は続いている。この結果、ヤルツァンポーはヒマラヤ山脈に遮られて東に流れ、山脈の縁(つまりプレートの縁)を回ってベンガル湾に注ぐことになった。押し上げられたチベット高原には海の名残である塩分を含む湖が多数取り残された。ヒマラヤ山脈は衝立のようにそびえ立ってインド洋からの湿った空気の流れを遮ったのでチベット高原は乾燥した大地となった。雨が少ないので大地の浸食が進まずなだらかな高原が続く。荒々しい岩峰が屹立するヒマラヤ山脈とその北に続く乾燥した褐色のチベット高原はこのようにして形成された。
話がだいぶそれてしまったが、車はチベットの大動脈・国道219号線を西に進む。2時間ほど走ってラツェという街で朝食。
(朝食。豚まんのようなもの)
ここでネパールの首都カトマンズに続く道と分岐し更に西へむかう。いくつか4,500m程度の峠をこえる。峠から見ると延々と褐色にうねる大地が続きその中にうねうねと道路が走っている。
(峠からの景色)
突然車が止まって後の席に座っていた高所ガイドのドジ君が飛び出して道ばたに座り込んだ。チョモランマに5回登ったことと車酔いは関係ないらしい。
褐色の大地の表面は植物の層で覆われている。今は乾期の終わりでほとんど生気がないが、雨期になれば少しは緑になるのかもしれない。
午後3時半、国道219号線から省道206号線との分岐。GPSで見ると標高は4,937m。これから北に向かってチベット高原に分け入っていく。道は片側1車線の真新しい舗装道路で対向車はほとんどないから高速道路並みのスピードで走ることができる。
道の両側は枯れた草原。前方に動物の群れを発見。近づくと馬だ。タシ君がロバだと教えてくれた。
(野ロバの群れ。枯草を食んでいる)
また動物の群れ。チベットガゼルだという。
(かわいいお尻のチベットガゼル)
どこまでも続く枯れた草原の上は青い空に積雲が浮かび遙か先にはなだらかな白い山。まるで霧ヶ峰高原を走っているような気分になるが、違うのは見える山は6,000m峰だということ。道路以外に人間の痕跡はない。これがチベット高原の景色かと感慨がわいてくる。
(枯れた草原が続く)
温泉が湧いている場所があった。
(温泉が湧きだしている)
道は緩やかな起伏をいくつも越えた。最高点は5,566m。中国語の看板と夥しいタルチョー。 やがて道は下り始め、前方には大きな湖と放牧されているヤクと羊の群れ。やっと人間の臭いがした。
(ヤクの群れ)
6時にソチンの街に到着。緯度でいけば北京から2時間分ほど西に来ているからまだ陽は高い。ソチン大酒店と書かれたホテルに入る。
(ソチンホテル)
新装開店らしく外見は立派なホテルだが、部屋に入るとシャワーのホースは破れ水しか出ない、Wi-Fiと書いてあったがつながらない。しかも8時まで停電という。ホテルの裏のこれまた新装開店の凝った趣向のレストランで夕食となったところでタシ君に電話。運転手のキャサンと一緒に出て行ったきり帰ってこない。
やっと帰ってきたと思ったら、警察が来ていると言う。タシ君が英語でまくし立てるのをやっと聞き取ると、「夏康堅(シャーカンチャン6,822m、来年登る予定の山)は、地元の人にとって聖なる山だから登ってはいけないと警察が言っている」らしい。警察は1度帰ってまた来るからその時は、直接話をしてみろとも。
タシ君の携帯電話が再び鳴った。警察が来たらしい。ホテルの部屋に戻ると1人の警察官が待っていた。写真を見せて登山の概要を説明するが、警察の言い分は変わらない。私たちは麓にテントを張って1泊2日での偵察を予定して装備や食料を用意してきたが、「道路から見るのはいいが登ってはいけない」とも言われた。色々説明しても埒があかない。警察官は帰っていった。
想定外の出来事発生。2年前から準備して目標の山を目の前にしているのに。呆然としてしまう。しかしこのまま手をこまねいている訳にもいかず部屋でKさんと事態を分析する。山が信仰の対象となることは珍しいことではない。ましてやここは信仰の篤いチベットである。ヒマラヤ登山史の初期には頂上の近くまで登って登頂と見なしたこともある。30年の友好関係を梃子に登山許可を迫ることはできるかもしれないが、地元の人が嫌がっている山に登るっていうのはどうなのか・・・。明日はとにかく麓まで行ってみようということでその日は寝ることになった。
翌朝、留守本部に電話で状況を連絡し偵察に出発。雲が多く山は見えない。ソチンの街を出ると直に道は舗装でなくなった。30分もしないうちに左後輪がパンクして雪が舞うなかで交換。途中の街でタイヤを修理し昼食。相変わらず山は雲の中。地図を見ながら慎重に進む。
グーグルアースの立体画像で予め見定めておいたベースキャンプ(BC)予定地を探すが山が見えないのでその場所を特定できない。左の斜面の奥に採石プラントの飯場らしきものが見えたので行って聞いてみることにした。まかないをしていると覚しき若い女性に写真を見せて夏康堅の場所を聞くが要領を得ない。
(チベット人のお嬢さん)
そのうちにドジ君が「山が見える」と言ってきた。外に出ると目の前に懸垂氷河とその上につながる山が雲の間に見える。稜線は見えない。グーグルアースの写真と目の前の景色を比べるとBCを予定している扇状地の中にいるらしい。
(夏康堅(シャーカンチャン)峰)
懸垂氷河の左の斜面を登る方がよさそうだ。右からいけば上部でクレバス帯を通過しなくてはいけない。左からなら安全に稜線に立つことができるだろう・・・・。
待っていてもガスは晴れそうもない。夏康堅の頂は姿を見せないので偵察はここまで。
(平原は雪化粧)
帰る朝は快晴。夜の間に雪が降ったらしく日差しを浴びた草原は昨日とうって変わって晴れやかな表情をみせた。どうやら夏康堅の神は我々の訪問を歓迎しなかったようだ。
(帰りに撮影した峠。一面雪景色nにタルチョがはためく。)
(つづく)