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「有明山 小柴沢」(「ビスタリ山ある記」(17))

今年はやっぱり季節が早く進んでいます。梅雨が明けました。

関東甲信地方が6月に明けるのは、統計を取り始めた1951年以来初めてのことだそうです。

安曇野インターで高速をおりて大町方面に向かうと左側に富士山のような台形の山が見えます。これが有明山です。

「信濃富士」「安曇富士」などと呼ばれ、大糸線には「有明」という駅があったり「安曇節」の中に登場したり、古くから地元の人に親しまれてきた霊山です。

標高は2,268m。頂上には「有明山神社」の奥社があります。登山道は、燕岳登山口の中房温泉から登るものがよく登られていますが、今回は沢登りです。

燕岳登山口の中房温泉に入っていく、曲がりくねった細い道が、信濃坂発電所を過ぎてしばらく進むと中房川にかかる橋があります。

橋の200mほど手前から中房川におりていくと水の取り入れ施設があってそこから中房川に入ります。河原を200mほど下ったところが目指す小柴沢の入り口です。

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倒木と岩で埋まった沢を進むと滝が続いて現れます。濡れていますが花崗岩の表面はザラザラしているのと、底がフェルトの沢靴を履いているので見た目よりは登れます。

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しかしミスは許されません。沢の中での事故は致命的な結果につながります。自信がなければ迷わず高巻き。

2時間ほど進んだところで沢の行く手を阻む60mの滝が現れました。

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両岸も急な崖で高巻くのは難しそうですが、近づいてよくみると傾斜はそれほどでもなく階段状につながっていそうです。このところ心技体充実のK君が左の凹角から取り付き、中段のバンドを右に渡ったところで岩塔にロープを固定。

他のメンバーはロープに登高器をつけてフォローします。2ピッチ目もロープをつけて、左上気味に登ってチムニーを抜け、急斜面の藪を抜けると滝の上に出ました。更に進むとやがて水がなくなり、笹藪をこいで稜線に飛び出しました。

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標高差500mを5時間。日本登山大系には、4~5時間と書いてあったのでほぼ予定通り。

ここから南尾根の稜線を辿ります。頂上までは標高差で600m弱。道は無いので藪こぎですが、心配していたほど深い藪ではありません。

有明山の東面はシャクナゲとハイマツの猛烈な藪ですが、小柴沢のある南面はそれほどではないようです。

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動物の気持ちで眺めると藪が薄くなった“けもの道”が見えてきます。家畜に関わる仕事をしているJさんは見えないようですが、唯一過去にこのルートを歩いたことのある最年長のFさんには見えるようです。家畜と野生動物は違うのでしょう。

稜線の途中に出てきた巨岩は左に巻いて、濃い藪に苦しめられながら弱点を突いてなんとか通過。ここでもK君が活躍。更に稜線を辿って南峰に飛び出したのは14時半。歩き始めて8時間半たっていました。沢の支度を解いて大休止。頂上から見える安曇野は夏空の下に輝いていました。

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私が入った山岳会は有明山の開拓をしていたので、新人だった20歳台前半は毎週のように有明山の沢に入りました。40年前のことです。体力はあったけど、技術も知識も未熟で、登れなくて敗退したり、ビバークしたり、暗くなって下山したりで、有明山の沢は大変だったという記憶しかありません。30年ぶりくらいの有明山でしたが、登り切ることができて明るいうちに帰れそうです。

今の登山ブームでは、人気の山や山小屋のあるルートに登山者が集中しますが、昭和30年代の登山ブームは多くの山岳会を産み、それぞれがオリジナルなルート開拓を目指していました。

日本全国の山岳会が地元の山に入り、“地域研究”と称して沢や岩場にルートを拓き、それを集大成したのが、「日本登山大系」全10冊です。昭和55(1980)年に、白水社から出版され、バリエーションルートを目指す人のバイブルとなりました。一度絶版になったのですが、平成9(1997)年に復刻されています。有明山のことは、日本登山大系7「槍ヶ岳・穂高岳」に載っています。

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